帯広 × 豚丼 × ソウルフード

開墾のはじめは豚とひとつ鍋

勝の地に初めて豚を持ち込んだのは、晩成社を率いた依田勉三でした。(「十勝 × 帯広 × いいところ」参照)入植の翌年の1884年には、牛よりも先に豚4頭とヤギ数頭の飼育を始めたといいます。今でこそ、十勝=酪農(牛)のイメージが強いですが、実は付き合いとしては豚のほうが長いのです。

六花亭「ひとつ鍋」の菓名は勉三の句に由来する

勉三が詠んだ歌に「開墾のはじめは豚とひとつ鍋」というのがあります。客人が豚の餌と間違えるほどの粗末な食事だった開拓初期の生活の過酷さと、当時の人々にとって豚がいかに身近な存在だったかを表した一句です。

勉三は豚肉をあぶってハムを製造したといいますが、当時の人々に豚を食べる習慣はなく、事業としてはうまくいきませんでした。しかし、農家が冬の保存食として自家用に飼育をしたこともあり、十勝における養豚はその後徐々に普及していきます。

「豚丼」の誕生

は流れて昭和初期。当時の帯広にはカフェが多くあり、美しい女給やハイカラな食べ物を目当てに医者や経営者など富裕階級が通ったといいます。そんなカフェの一つで腕を振るう若い料理人がいました。阿部秀司さんというその料理人は後に、一軒の大衆食堂を現在の帯広駅前に開業することとなります。その店こそが、帯広豚丼発祥の店「ぱんちょう」でした。

阿部さんは函館出身で東京で洋食の修行を積んでいましたが、当時は豚肉料理と言えば鍋かすき焼きで、豚カツなどの洋食は庶民には手が届きませんでした。そこで、豚肉を「もっと庶民でも食べられる料理にできないか」と考えた末、鰻丼をヒントに醤油をベースにした豚丼を思いついたと言います。

帯広豚丼の老舗「ぱんちょう」
現在は改装工事中で、2020年10月から仮店舗で営業中。

ソウルフードへの進化

「ぱんちょう」が誕生した昭和8(1933)年は、帯広に市制が施行された年でもあります。市内には祝賀ムードが広がる一方で、「内地」に目を転じると、前々年の満州事変に端を発し同年には国際連盟から脱退と、日本は確実に戦争への道を歩み始めていました。

そんな情勢を反映してか、帯広の街から徐々に西洋風のカフェが姿を消していく一方で、「新橋」(1926年創業)、「世界一食堂」(33年)、「はげ天」(34年)、「金時」(35年)といった老舗食堂が「ぱんちょう」の開業と前後して次々と誕生します。

争の時代を抜け、昭和30(1955)年に「ぱんちょう」は豚丼専門店となります。その頃には「ぱんちょう」の豚丼は食通の間で評判となり、前出の老舗食堂も次々と「うちでもやってみよう」と豚丼の提供を始めます。

しかし、どのお店もただ「ぱんちょう」の真似をしたわけではありませんでした。「ぱんちょう」の豚丼が炭火焼きだったのに対し、「新橋」はカラメルを使った黒ダレでフライパン焼きにしたり、「はげ天」は電気グリルを使用したりと、それぞれのお店は独自性を追求しました。また、「金時」は発祥の店である「ぱんちょう」に配慮し、豚丼を名乗らずに「豚弁当」と呼んだとも言われています。

天ぷらの名店でもある「はげ天」
グリーンピースがのった豚丼が有名
「新橋」名物の「黒い豚丼」
豚丼の提供を始めたのは帯広で二番目の老舗だったが、2019年に惜しまれつつ閉店した。

うして、帯広にその後何十年と続く老舗の創業者たちが、お互いに敬意を表し、他店との違いを出そうと切磋琢磨することで、豚丼は「ある店の名物料理」から「帯広のソウルフード」へと進化を遂げていったのです。

※参考記事
 「豚丼物語」 BUTADON.com(運営元:十勝毎日新聞社)

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